寂静山 安勝寺

※ 諫早史談第27号(平成7年3月発行)の文章をお借りしております

安勝寺草創の年代については詳細な文書がなく、判然としない面もあるが、寺の由緒書きによれば
「当寺は草創すこぶる久しうして初建の年時を知らず(中略)唐人廟において草庵を建立せしとなり」
とあることから、これは安勝寺の前身であって、そのことは山号寺号もなく、いわゆる一宇の茅舎(ぼうしゃ)に過ぎなかったものであろう。

 

天正年間の安勝寺一世として記される「善心」は浄土真宗の教学に精通した熱心な住持であったと伝えられ、唐人廟に住したという。(唐人廟は現在の金谷町の北諫早小学校北部の墓地一帯で、以前は墓地中心部に安勝寺歴代の住持墓域があったということである)

 

現在の金谷町安勝寺一帯は、天正時代伊佐早領主として高城に居城した西郷氏の二の丸砦の跡と伝えられるが、天正15年西郷氏は豊臣秀吉の命により竜造寺家晴に亡ぼされ、新しく領主となった諫早家祖家晴は現在の場所に本堂、庫裡(くり)、鐘楼を逐次建立寄進し、慶長15(1610)年に領主真宗総道場の辞令書を交付している。(署名は家晴剃髪後の法号「道安」名であり、家晴は3年後の慶長18年に59歳で波乱に満ちた生涯を終えている)

 

慶長19(1614)年、京都の本山本願寺から「 寂静山安勝寺」の山号、寺号が下って正式の寺院の格式を備え、善心をその開基とするが、当初の境内や建物の状況、配置などは不明である。

▶ 時鐘楼

元禄年間本堂が改築され、亨保5(1720)年には第7代領主茂晴の要請によって「時の鐘」が撞かれることになり鐘は諫早2代直孝(なおのり)の寄進、萬治年間長崎で鋳造され、貞享年間多良の鋳工藤原兼成の改鋳になったもので、鐘撞きの維持費は米50石を一般に年2割の利息で貸し付けた利潤によって賄ったことが諫早家旧蔵の「日新記」に記されている。

鐘楼は元禄時代に建立され、部分的には修理を加えられているものの、境内に調和した美事な建築美は昔のままの姿である。  時の鐘についての公的助成は、明治維新を迎えて打切りとなったけれども以降は安勝寺の方で継続維持される事となり、この高台から響く刻の鐘は亨保5年9月安勝寺6世海応の代から始まり昭和19(1944)年、戦争末期の金属供出まで実に220余年の間1日も休むことなく、朝な夕なはもちろん昼餉(ひるがれい)の鐘の音を聞く遠近の人にとっては、毎日の生活に溶け込んだ日常の絆ともなったものである。

▶ シーボルト等要人の宿所

藩政時代の安勝寺が、時の要人、学者や出島商館長、シーボルト一行等の宿所となった史実は、高塀に囲まれ警備の安全性はあったとしても、歴代の住持には遠来の地名人をよく接遇したことが挙げられる。中でも第11世喚命は、廃仏毀釈の法難の中に勤王派として東奔西走し、本来の寺の業務を顧みず、専ら王政復古に身命を擲(なげう)ったために、寺の方はまさに廃寺寸前の危機を招いたとも伝えられる。しかし維新の志士らには幕末の長崎往復の途次、喚命の力で幕吏の目を逃れ安勝寺に庇護された者も幾人もあり、更に危険が迫れば裏手の大木の洞穴に匿われて事なきを得たという。

後継の第12世喚忠は仏家本来の主務を完うし終身、瑞心正行、50余年の粉骨砕身の布教活動は著名で、大衆の感動教化も遍くして、県内外の他寺院から説法を乞う所も後を絶たず、日毎に名僧の誉れが高まって、寺運は興隆し、本山から宣布院と諡号(しごう)されるまでになったという。

▶ 明治の本堂大改築

喚忠は多用の中にも明治38年、日露戦争の国難の中に幾多の困難を制して元禄時代の古堂を解体し、現在の豪壮な輪奐(りんかん)の美を誇る本堂を建て替えたのである。財源は募金に依り明治35年から始めて、金額の金参万円を皆済したのは10年後の明治45(1912)年であった。
 本堂に使用された欅(けやき)の大円柱は約40本、当寺これ程の円柱使用は寺格により本山の許可を必要としたものであったが、1本の値段が78円(現在値は900万円を下らない由)、大工賃1円、彫刻師1円50銭、人夫賃は50銭の時代であった。今日は大工の日当も当時の15000倍であるから、本堂再建に要した費用は莫大な金額である。

 庫裡は明治20年頃の建築というが、中央の50畳もある大広間の天井には黒松の4間物(7.2m)梁3本を通して上部を支え、広間には中柱が全く見られない極めて珍しく頑丈な構造である。ここに幕末の三舟と称される勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の扁額その他を拝するのは、安勝寺歴代を語る証をもなるであろう。
 歴史を語るべき諸史料が安勝寺に少ない理由は、明治10(1877)年の西南の役のとき当寺が政府軍の屯所(とんしょ)に指定され、官軍支援隊の宿営その他に利用されたため、どうしたことか古文書類や一部の過去帳まで消失してしまったという。時の混乱を物語る一端かもしれない。

▶ 廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

本堂東外陣に安置されている等身大の阿弥陀如来と、脇士の観音、勢至両菩薩の三体は、以前四面宮(諫早神社)に隣接していた荘厳寺の本尊であったものを、維新直後の神仏分離、廃仏毀釈の難事に遭い、12世喚忠の手で荘厳寺から移された尊像であり、いずれも鎌倉時代の優作と伝えられている。


大正時代 本明川からのぞむ安勝寺

▶ 現在へ

安勝寺本堂は一昨年(編集注:執筆当時)新しく屋根を葺替え、内陣伽藍も一段と光彩を放っているが、川の方から見る景観は昭和32年大水害後の都市計画で高石垣の大半が道路の嵩上げで埋め立てられたため、往事の大影を知る者にとっては誠に残念という外ない。
 なお第13世正林桃城師は戦後刊行された諫早市史の編纂に当たられた方であり「現川焼」の研究家としても著名であった。現在(執筆当時)の14世悟朗師は諫早市教育委員に就任されている。

< 2019年編集追記 >

平成28(2016)年4月に起こった熊本地震の余波により、300年間かわらず建っていた鐘楼の石垣が緩みわずかに傾いたため、約1年半をかけ、可能なかぎり元の建築材をそのまま使いながら、ほぼ元の姿に修復した。 着工時に改修責任者であった第14世悟朗は同年の10月に91歳で往生し、その後を第15世住職となる弘城が継ぎ、2018年2月竣工した。